『除け者の栄光』ドミニク・フェルナンデス

 ドミニク・フェルナンデス(Dominique Fernandez)の『除け者の栄光(La Gloire du paria)』(榊原晃三訳)を読んだ。1987年に出版されたドミニク・フェルナンデスにとっての12作目のこの小説は、フランス文学の中でエイズを扱った最初の作品のひとつであるらしい。ミュジールという偽名で登場するミシェル・フーコーとの関係が赤裸々に語られていることでも知られるエルヴェ・ギヴェール(Hervé Guibert)の『ぼくの命を救ってくれなかった友へ(À l'ami qui ne m'a pas sauvé)』が世に出たのが1990年だから、フェルナンデスの小説は、これよりも早く世に出ている。もはやギヴェールの名前もほとんど口にされなくなってきているような気もするが、ドミニク・フェルナンデスの名前に至っては、誰かから耳にしたことすらない。現在も存命で毎年のように小説やエッセイを出しているのに、1999年の『母なる地中海』以後日本では全く翻訳が出ていないようである。そんな若干忘れられた作家の感が否めないフェルナンデスであるが、『除け者の栄光』は、その書き出しから読者をぐいと引き込んでくる。

 

モーリス・コワニャール!ロンドンからやってきた救国の英雄!ド・ゴール将軍のもっとも古い盟友の一人!1942年6月2日、オーヴェルニュにパラシュート降下した勇者!初期の抗独ゲリラ組織を作った人物!

 

 

同性愛を描く小説でなぜレジスタンスの英雄が登場してくるのか(モーリス・コワニャールが実在の人物なのか架空の人物なのかはよくわからないのだが)。それは、この人物は対独レジスタンスの英雄でありながらも、第二次世界大戦終結した後にもド・ゴールのように英雄として政治の世界での栄達することなど考えもせず、裏社会でひっそりと生きることを望んだ「除け者paria」だからである。地下の世界で敵だけでなく味方の密告にも怯えながら抵抗活動を続けた男にとって、平凡な日常生活になど戻れるはずがない、と考えるのである。「コワニャールは小切手偽造を皮切りに、直接盗みを働くようになったにちがいない。本職の泥棒と馴染みにもなったろう。そういう手合いととkもに、昔の地下潜入の習慣、苦しみ、快感をまた味わった。(…)逮捕、投獄、裁判、とくに世間への不面目や社会の非難、これはからが四十年間ひそかに待ち望んできたものなのだ」(12ページ)。同性愛カップルの片割れ、ベルナールはコワニャールの生き方に同調する。つまり、同性愛の人間も決して表舞台には登場せず、禁じられた世界の中でひっそりと生きるのがマゾヒスティックな快楽を生むのである。社会の中で異常だと判断されることでこそ得られる快楽、まさにジャン・ジュネ的な実存である。

 

悲しい時代に続いて暗い青年時代が。と同時に、欲望を覚え、愛するときがやってきた。その時、自分の人生から誇りと歓びを作り出すものを、まるで恥ずべき先天的欠陥のように隠すことを強いられたとは!しかし、苦悩こそ情熱が本物であることの証なのだ。ところが現代世界はその苦悩を拒否して、情熱を深く美しく味わう術を自らの手で禁じてしまった。ベルナールは橋の欄干から身を乗り出して、セーヌの河岸に降りている恋人たちを眺めた。すばらしい春の日に、裸同然の格好で堤に寝そべり、人目も憚らずに抱き合ってキスしている若者たちは、いったい愛について何を知っているのだろうか?そんな青年や娘たちは少しも羨ましくない。彼らは期待に打ちふるえる感情も、不安の中にある無上の歓びも、不自由になってこそ覚えることのできる欲望の激しさも知らないだろう。世間の人間は、ロミオとジュリエットの悲劇は二度と繰り返させないと誓っておきながら、子供たちには愛し合うことを許している。まるで欺瞞を売っているようなものだ。おれは同性愛の解放のための戦いにうっかり巻き込まれてしまった。だが、ゲイによって同性愛の〈権利〉が獲得されると、同性愛者たちにもろもろの用心を強いていた危険が消え、それとともに彼らの生活に刺激を与えていたものまですべてが消滅してしまうとは予想していなかった(94ページ)。

 

ベルナールは45歳なのに対して、相手は25歳の青年である。1968年を頂点とする性の自由化によって徐々に同性愛も一般に認められるような社会になりつつあったフランスであるが、その恩恵を受け、同性愛者も異性愛者と同様な権利を認められるのが普通であると考える25歳のマルクにとって、ベルナールのマゾヒスティックな生き方は理解できない。「もうジュネはわれわれにはピンと来ない。彼の価値は、現代では通用しないんだ。」(22ページ)。結局のところ、この二回り歳の差があるカップルを主人公にすることで、フェルナンデスは同性愛者たちの実存の変化を見事に表現している。同性愛者が反社会的存在であった時代からアメリカのゲイという価値中立的な言葉の導入と性の自由化によって同性愛が世に認められつつある時代へ。実際このカップルは一緒に暮らしていて、多くの友人がいるし、特に差別されているわけではない。だが、ここで同性愛者の歴史は第三のフェーズに入る。エイズの登場である。こうして、同性愛者は再び「除け者」の身分に陥ってしまうのだ。「せっかく長い道のりをかけて〈ホモ〉を病的なイメージから救おうとしてきたのに、今になって、感染は不潔だからと再び病理学の分野に逆戻りするとは!」(127ページ)。エイズの存在が世の中に知られるようになると、肉屋にも相手にしてもらえなくなるし、友人たちもうわべだけは取り繕いながらも距離を取り、会おうとはしてくれない。だが、この小説が「除け者」という身分への愛着を隠していないこともあって、人々の同性愛者やエイズ患者への反応を即座に批判するのは間違っているだろう。当時エイズは不治の病であり、どのように感染するのかも社会に浸透していたわけではない。それが結果的に新たな差別を生むことになったのは否めないが、この小説の主眼は人々の差別意識の批判ではない。時代遅れのジュネ主義者ベルナールは、作家であり「ネオ・ロマン主義者」などと呼ばれているが、「除け者」としての同性愛者たちの死をドラマティックに美化することである。小説も終わりにベルナールは、エイズであることが判明するが、それはマルクとの同性愛関係に起因するものではなく、事故の際の輸血で感染したものであった。それにもかかわらず、周りの人々に見捨てられつつも看病を続けるマルクは、同性愛によってエイズに感染したと思い込むベルナールに真実を知らせず、二人の愛がエイズによる死を引き起こしたという物語、愛と死は不即不離であるという神話の中で自決することを選ぶ。窓も黒い紙で覆い、一筋の光も届かない密閉された部屋。死の舞台設定も完璧である。小説の中でエイズを扱った戯曲を書き上げようとするも病のせいで未完成に終わったベルナールだが、「除け者」の論理へと同調していくマルクの変身によって、自らの人生を劇化することに成功するのである。

『除け者の栄光』は実によくできた小説であり、他のフェルナンデスの小説やエッセイを読む気にさせてくれた。次は、68年の性の解放までの出来事を書いたというL'Étoile roseでも手にとってみようか。

ベルナールが模倣するジュネについてももっと考える必要がある。フェルナンデスはおそらくサルトルの長大なジュネ論なども参照していただろうし、精神分析にのめりこんでいたというこの作家はその観点からもジュネについて色々と書いていそうである。