アンティゴネーとレバノン内戦あるいは『第四の壁』
2013年にゴンクール賞本賞は逃しながらも高校生が選ぶゴンクール賞が授与されたセルジュ・シャランドンの『第四の壁Le Quatrième mur』(2013年)の10年越しの映画化作品。封切り初週の客の入りはまずまずなようで、週末に飛び入りでシャトレのUGCに行ったときには満員で入れなかったほど。とはいえUGCではシャトレだけで、他は系列のmk2のいくつかの館で上映されているくらいで大規模に展開されているとは言い難いのだが。それはさておき、フランスの映画情報サイトであるAllocinéでは批評家、観客の評価とも悪くない(批評家は3.4、観客4)。しかしその評価は、映画そのものの質というよりも、主題のアクチュアリティに求めるべきかもしれない。現在のイスラエルーパレスチナ問題、さらにはシリア問題とも無縁ではない、1975年から1990年まで及んだレバノン内戦を扱い、その複雑さと悲惨さを正面から描いているからだ。原作者のシャランドンは、もともと著名なジャーナリストで実際に長きにわたってレバノンを取材していた。30年の時を経てその経験をフィクションで描いている。
ただ、正面からというのは語弊があるかもしれない。市井の人を主人公にしているのではなく、内戦中のレバノンで『アンティゴネー』の上演を企てるフランス人演出家を主人公に据えているのだから。『アンティゴネー』はよく知られたソフォクレスのものではなく、ドイツ占領下の1944年にジャン・アヌイがリライトした戯曲の方である。大枠の物語はどちらの作品でも変わらない。オイディプス亡き後のテーベの混乱期に起こる後継争い、そして国家の法と兄弟愛=自然法の対立である。オイディプスの子であるアンティゴネーの二人の兄ポリュネイケスとエテオクレスは王座を巡って争い共倒れする。しかるのちに王となったアンティゴネーの叔父クレオンは、国家への反逆罪のかどでポリュネイケスの埋葬を禁ずるが、アンティゴネーは死者にふさわしい儀式の遂行を頑として譲らず、地下に幽閉される。その後クレオンはポリュネイケスの埋葬とアンティゴネーへの処分を取り消すが、時すでに遅く、アンティゴネーは首を吊り、許嫁にしてクレオンの息子であるハイモンもアンティゴネーの後を追い、さらにはそれを知ったクレオンの妻も自害するという死の連鎖がこの悲劇の梗概である。アヌイの戯曲では、アンティゴネーの首吊りと許嫁の切腹がよりダイナミックに描かれているといえるが、どちらかというと戦時下において同じ物語が異なる意味を持ちうることに書き換えの意味があるように思われる。ちなみに、以前東京のパルコ劇場で『アンティゴネー』を見に行ったことがあり、そのときは蒼井優がアンティゴネー役を務めていた。冷静ながらも意志の強さを感じさせるこの女優は見事に演じ上げていた。
映画に話を戻せば、この上演企画は利害のぶつかるそれぞれの登場人物をレバノンの宗教や民族の演者にそれぞれ割り当てて、劇中だけでも平和な世界を実現しようという牧歌的なものである。アンティゴネーはパレスチナ系の女性に、ハイモンはイスラム教のドゥルーズ派に、クレオンはキリスト教徒に、ほかの役者たちはシーア派、アルメニア正教徒などに割り当てられる。しかし、とにかくレバノンの政治状況や宗教が複雑すぎるのに加え、それぞれの代表者=演者が片言のフランス語を独自のアクセントで話すものだから、へぼ外国人には内容をはっきり理解するのは難しい。皮肉なのは、どうやら主人公であるフランス人演出家はユダヤ人=イスラエルを象徴しているようなのだが、むしろレバノンを長きにわたって植民地支配し、シリアの領土をめぐって一種の分割統治を行ったフランスが、テーベの王族に血肉の諍いを起こしたオイディプスではないかと思えることである。外部の立場からある種「公平な」視点で内戦を眺める主人公だが、特に序盤レバノンの実情にあまり興味を示さず冷淡な姿は無責任な旧植民国家フランスそのもののようであった。悲劇を生んだ原因はフランスにもあるというのにそのことは映画で一度も触れられることはない。あたかも対岸の火事であり、芸術で平和を表現しようなど馬鹿げた振る舞いである。同様のことは、宗派、民族間の対立が激化し、上演が不可能になったあと、主人公が対立に巻き込まれ、戦争の悲惨さが他人事でなくなってからの展開にも現れる。アンティゴネー役を務める美人なパレスチナ系女性と恋仲になるが、彼女は内戦に乗じて侵攻してきたイスラエル軍の虐殺サブラー・シャティーラ事件の犠牲になる。恋人が死に、自身も爆発に巻き込まれると、主人公はようやくこの内戦の当事者になる。
タイトルの「第四の壁」は、演劇用語で舞台=フィクションと客席=現実を隔てる見えない境界を意味するが、どうやら上演目的でレバノンにやってきた主人公がシリアの内戦=舞台に囚われ、外に出られなくなりそれを最後に死ぬことによってのみ逃れられることを意味しているらしい。つまり、死によってのみ第四の壁を越えられるということである。しかしもっと単純に考えれば、むしろ演劇と現実の境界の不在を表現しているのではないか。『アンティゴネー』とレバノン内戦を重ねるということ自体、第四の壁が存在しないことを意味しているようなものだから。
悪口ばかり書いているが、芸術と戦争を巧みに重ねながらも、同時にその不可能性と楽観主義が皮肉にも顕になるという展開は、慰めとしての芸術という通年を見事に裏切っており、好感がもてる。レバノンの政治・宗教についての説明は省き、物語の緊張感を緩ませることがなかったのも観客への信頼が感じられる。途中フランス悲劇は、感情を露わにするのではなく、むしろ淡々と演じることにその肝があると述べる場面があるが、爆撃やBGMによって劇的な演出がなされつつも、この映画もその精神を反映させているのか、悲惨な場面でも総じてドラマティックに仕立て上げることはなく、装われた平静さのなかに絶望と空虚が現れているのも印象て的であった。また、ナイーブな演出家が徐々に戦禍に巻き込まれて変化をとげるさまを主役のローラン・ラフィットは見事に演じていたように思う。特に序盤は大袈裟に演じることなくその辺にいるフランス人のような気だるいリアルな喋り方をしており、戦争に対しても冷笑的な距離感があるが、次第に深刻な表情へと変わっていく。この俳優は昨年末に出たサラ・ベルナールについての伝記映画で、この大女優の対をなす名優にして恋人、さらにはサシャ・ギトリーの父親でもあるリュシアン・ギトリーを演じていた。
シャランドンの小説は、2021年のゴンクール賞候補になった『ろくでなしの子供L’enfant de salaud』を読んだだけだが、他の作品を読ませたいと思うようなものではなかった。この小説は、占領下でナチに協力していたばかりかそのときの「武勲」ですら嘘ばかりの「ろくでなし」の父親との関係とユダヤ人の子供の強制連行をジャーナリストの目から描いた調査の文学と自伝を掛け合わせたような作品であったが、ありふれた作品にしか見えなかったし、文体や思想的にも惹かれなかった。しかし、本作を見て、このジャーナリストの文学との関係をもう少し見る必要があるのかもしれないと思わせた。演劇的仕掛けについても、アヌイ以外の作品が参照されているようである。
日本でもフランス語圏文学の語が使われるようになって久しいが、アミン・マルーフを除けばレバノン系作家やレバノンを扱った文学作品はあまり紹介されていないように思われる。マルーフのLes Désorientésのほか、コリーヌ劇場の監督を務める劇作家でもあるWajdi MouawadのVisage retrouvéなどがレバノン内戦を扱っているようである。
『除け者の栄光』ドミニク・フェルナンデス
ドミニク・フェルナンデス(Dominique Fernandez)の『除け者の栄光(La Gloire du paria)』(榊原晃三訳)を読んだ。1987年に出版されたドミニク・フェルナンデスにとっての12作目のこの小説は、フランス文学の中でエイズを扱った最初の作品のひとつであるらしい。ミュジールという偽名で登場するミシェル・フーコーとの関係が赤裸々に語られていることでも知られるエルヴェ・ギヴェール(Hervé Guibert)の『ぼくの命を救ってくれなかった友へ(À l'ami qui ne m'a pas sauvé)』が世に出たのが1990年だから、フェルナンデスの小説は、これよりも早く世に出ている。もはやギヴェールの名前もほとんど口にされなくなってきているような気もするが、ドミニク・フェルナンデスの名前に至っては、誰かから耳にしたことすらない。現在も存命で毎年のように小説やエッセイを出しているのに、1999年の『母なる地中海』以後日本では全く翻訳が出ていないようである。そんな若干忘れられた作家の感が否めないフェルナンデスであるが、『除け者の栄光』は、その書き出しから読者をぐいと引き込んでくる。
モーリス・コワニャール!ロンドンからやってきた救国の英雄!ド・ゴール将軍のもっとも古い盟友の一人!1942年6月2日、オーヴェルニュにパラシュート降下した勇者!初期の抗独ゲリラ組織を作った人物!
同性愛を描く小説でなぜレジスタンスの英雄が登場してくるのか(モーリス・コワニャールが実在の人物なのか架空の人物なのかはよくわからないのだが)。それは、この人物は対独レジスタンスの英雄でありながらも、第二次世界大戦が終結した後にもド・ゴールのように英雄として政治の世界での栄達することなど考えもせず、裏社会でひっそりと生きることを望んだ「除け者paria」だからである。地下の世界で敵だけでなく味方の密告にも怯えながら抵抗活動を続けた男にとって、平凡な日常生活になど戻れるはずがない、と考えるのである。「コワニャールは小切手偽造を皮切りに、直接盗みを働くようになったにちがいない。本職の泥棒と馴染みにもなったろう。そういう手合いととkもに、昔の地下潜入の習慣、苦しみ、快感をまた味わった。(…)逮捕、投獄、裁判、とくに世間への不面目や社会の非難、これはからが四十年間ひそかに待ち望んできたものなのだ」(12ページ)。同性愛カップルの片割れ、ベルナールはコワニャールの生き方に同調する。つまり、同性愛の人間も決して表舞台には登場せず、禁じられた世界の中でひっそりと生きるのがマゾヒスティックな快楽を生むのである。社会の中で異常だと判断されることでこそ得られる快楽、まさにジャン・ジュネ的な実存である。
悲しい時代に続いて暗い青年時代が。と同時に、欲望を覚え、愛するときがやってきた。その時、自分の人生から誇りと歓びを作り出すものを、まるで恥ずべき先天的欠陥のように隠すことを強いられたとは!しかし、苦悩こそ情熱が本物であることの証なのだ。ところが現代世界はその苦悩を拒否して、情熱を深く美しく味わう術を自らの手で禁じてしまった。ベルナールは橋の欄干から身を乗り出して、セーヌの河岸に降りている恋人たちを眺めた。すばらしい春の日に、裸同然の格好で堤に寝そべり、人目も憚らずに抱き合ってキスしている若者たちは、いったい愛について何を知っているのだろうか?そんな青年や娘たちは少しも羨ましくない。彼らは期待に打ちふるえる感情も、不安の中にある無上の歓びも、不自由になってこそ覚えることのできる欲望の激しさも知らないだろう。世間の人間は、ロミオとジュリエットの悲劇は二度と繰り返させないと誓っておきながら、子供たちには愛し合うことを許している。まるで欺瞞を売っているようなものだ。おれは同性愛の解放のための戦いにうっかり巻き込まれてしまった。だが、ゲイによって同性愛の〈権利〉が獲得されると、同性愛者たちにもろもろの用心を強いていた危険が消え、それとともに彼らの生活に刺激を与えていたものまですべてが消滅してしまうとは予想していなかった(94ページ)。
ベルナールは45歳なのに対して、相手は25歳の青年である。1968年を頂点とする性の自由化によって徐々に同性愛も一般に認められるような社会になりつつあったフランスであるが、その恩恵を受け、同性愛者も異性愛者と同様な権利を認められるのが普通であると考える25歳のマルクにとって、ベルナールのマゾヒスティックな生き方は理解できない。「もうジュネはわれわれにはピンと来ない。彼の価値は、現代では通用しないんだ。」(22ページ)。結局のところ、この二回り歳の差があるカップルを主人公にすることで、フェルナンデスは同性愛者たちの実存の変化を見事に表現している。同性愛者が反社会的存在であった時代からアメリカのゲイという価値中立的な言葉の導入と性の自由化によって同性愛が世に認められつつある時代へ。実際このカップルは一緒に暮らしていて、多くの友人がいるし、特に差別されているわけではない。だが、ここで同性愛者の歴史は第三のフェーズに入る。エイズの登場である。こうして、同性愛者は再び「除け者」の身分に陥ってしまうのだ。「せっかく長い道のりをかけて〈ホモ〉を病的なイメージから救おうとしてきたのに、今になって、感染は不潔だからと再び病理学の分野に逆戻りするとは!」(127ページ)。エイズの存在が世の中に知られるようになると、肉屋にも相手にしてもらえなくなるし、友人たちもうわべだけは取り繕いながらも距離を取り、会おうとはしてくれない。だが、この小説が「除け者」という身分への愛着を隠していないこともあって、人々の同性愛者やエイズ患者への反応を即座に批判するのは間違っているだろう。当時エイズは不治の病であり、どのように感染するのかも社会に浸透していたわけではない。それが結果的に新たな差別を生むことになったのは否めないが、この小説の主眼は人々の差別意識の批判ではない。時代遅れのジュネ主義者ベルナールは、作家であり「ネオ・ロマン主義者」などと呼ばれているが、「除け者」としての同性愛者たちの死をドラマティックに美化することである。小説も終わりにベルナールは、エイズであることが判明するが、それはマルクとの同性愛関係に起因するものではなく、事故の際の輸血で感染したものであった。それにもかかわらず、周りの人々に見捨てられつつも看病を続けるマルクは、同性愛によってエイズに感染したと思い込むベルナールに真実を知らせず、二人の愛がエイズによる死を引き起こしたという物語、愛と死は不即不離であるという神話の中で自決することを選ぶ。窓も黒い紙で覆い、一筋の光も届かない密閉された部屋。死の舞台設定も完璧である。小説の中でエイズを扱った戯曲を書き上げようとするも病のせいで未完成に終わったベルナールだが、「除け者」の論理へと同調していくマルクの変身によって、自らの人生を劇化することに成功するのである。
『除け者の栄光』は実によくできた小説であり、他のフェルナンデスの小説やエッセイを読む気にさせてくれた。次は、68年の性の解放までの出来事を書いたというL'Étoile roseでも手にとってみようか。
ベルナールが模倣するジュネについてももっと考える必要がある。フェルナンデスはおそらくサルトルの長大なジュネ論なども参照していただろうし、精神分析にのめりこんでいたというこの作家はその観点からもジュネについて色々と書いていそうである。